2019 バーゼルワールドは何処へ向かうのか?

スウォッチ グループの不参加宣言に端を発した、バーゼルワールドの存続問題。どういう経緯で今に至り、今後どのようになっていくのか。長年にわたりバーゼルワールドを見続けてきた巨匠ギズベルト・L・ブルーナーはこう分析する。 記録によると、「バーゼル国際見本市」(MUBA)が初めて開催されたのは1927年のこと。さまざまな業種の出展者とともに、29社の時計メーカーも参加し、程度の差はあれど、価値ある時計を発表した。初回開催時は第一次世界大戦による混乱期だったが、永世中立国としてヨーロッパで孤立していたスイスは、困難な環境の中で自らの存在をデモンストレーションしたのである。ローリング・トゥエンティーズと呼ばれた20年代半ば、正確には25年に、多数の時計メーカーによる初の共同開催ショーが行われている。これは成功を収め、以降、国際見本市における時計および宝飾品の存在感はより強調されてゆく。こうして31年にはMUBAとして初の「スイス時計見本市」が開催された。この際の出展者数は70社。 専門誌はこぞってこれを報道し、ヨーロッパ中がバーゼルに振り向くようになった。これ以降、バーゼルでの時計宝飾品見本市は、現在に至るまで途切れることなく毎年1回開催されている。そしてこの見本市の名称と参加基準は、ほぼ定期的に変更されてきた。  しかし今さらではあるが、なぜこの見本市が、時計製作においてはなんら意味を持たないバーゼルという都市で開かれているのか? その答えは簡単だ。時計・宝飾品に関して驚くほど伝統がないがゆえに、かえってこの業界の発信地として見本市の形作りがしやすかったのだ。いわば中立性を保てたのである。 年を重ねるごとに、ドイツやフランスからの出展希望も増え、集中的な交渉の末に、出展者委員会はドイツ時計産業協会ならびにフランス時計企業連合を、欧州諸国参加者として認可した。1972年のことである。同年にはドイツ、フランス、イタリア、イギリスもMUBAに出展できるようになった。73年の「欧州時計宝飾品見本市」(EUSM)には10カ国が参加し、出展者数は712社に増えた。その10年後に「バーゼル83欧州時計宝飾品見本市」という現代的な名称に変わり、EUSMは開催団体としてMUBAに融合したが、組織自体はそれまでとなんら変わるところはなかった。ところが84年にはEUSMが初めてMUBAを離れて、見本市を単独で主催するようになる。これにより、バーゼルの見本市は一層の発展を遂げることとなった。 この当時、欧州外の数多くのメーカーが見本市への出展について、かなりの関心を寄せていた。86年、見本市主催団体は、出展者委員会との話し合いの下に欧州諸共同体以外の各国からの出展を許可した。このとき、欧州諸共同体以外の各国出展者全体に認められた展示面積は会場全体の5パーセントまでで、各ブースの床面積は最高200平方メートル。参加者として認可を受ける必要条件は、無条件で自由貿易と商標法を遵守することだった。また見本市の主催者も欧州自由貿易連合(EFTA)に代わった。  1987年、時計見本市の主催者は、SMHグループ(オメガ、ロンジン、ティソ、スウォッチ他のブランドを擁する現スウォッチ グループの前身)が撤退するという、悪い知らせを初めて受けることになった。ビエンヌに本拠地を置くこの巨大な時計コンツェルンは、より成功が見込めそうな別のマーケティング形態を模索していたのだ。見本市にとってSMHの不参加は残念ではあったが、一方では、出展を継続するメーカーには連帯感をもたらした。かくして見本市の様相は見本市開催初年度のごとく波瀾含みとなり、91年にはルフトハンザの「フォッカー50」がバーゼルからジュネーブに飛び立つこととなった。 フォッカーの到着を待ち受けていたのはカルティエの社長であるアラン・ドミニク・ペランだった。彼は4月17日の発表会にジャーナリストたちを厳選して招待し、「すべて無料でお楽しみ頂けます。しかし時計だけは有料でお持ち帰り下さい」と発言した。こうしてボーム&メルシエ、カルティエ、ピアジェ、ジェラルド・ジェンタ、ダニエル・ロートが新作を発表する第1回の「ジュネーブサロン」(SIHH)が開催されたのだった。ペランはバーゼルに別れを告げる理由として、威厳を持つ空間で、排他的にラグジュアリー製品を提供する必然性を挙げた。この試みは成功した。というのも開催期間の月曜日から水曜日までの間に、売り上げは15パーセントの上昇を記録したからだ。 ジュネーブサロンの成功にもかかわらず、参加メーカーは引き続きバーゼルでの出展を希望していた。しかしカルティエ、ピアジェ、ボーム&メルシ
エは93年にバーゼルから完全に撤退する。その空きスペースにはすかさずSMHグループが乗り込み、カルティエの跡地には、コンツェルンのリーダー的ブランドであるオメガがブースを構えた。その翌年にはロンジンも会場へ帰還を果たし、リンドバーグの大西洋横断劇を上演した役者一座が華を添えた。95年には、バーゼルへの出展者が初めて200社以上となり、名称も「バーゼル95国際時計・宝飾品見本市」となった。一方でローブローのように響いたのは、99年に、オーデマ ピゲ、ブレゲ(当時はインベストコープグループに所属)、そしてジラール・ペルゴが颯爽とバーゼルに別れを告げたことだった。 バーゼルはその後1年も経たずに会場の大改装を行い、その経費は約1億7000万スイスフランだったという。2001年を最後にIWC、ジャガー・ルクルト、ならびにA.ランゲ&ゾーネも会場を後にした。この3社はリシュモングループの傘下に入ることによって、新作発表の場を当然ながらジュネーブに移したのだった。 これまで〝バーゼル・フェア〞という通称で親しまれてきた見本市はその後、正式に「バーゼルワールド」と名称を改めた。しかし傾向は変わらなかった。出展者は増えていき、したがって売り上げも増加していった。傲慢にも感じられる主催者の振る舞いに対して、出展者たちはそこかしこで対抗したり撤退をほのめかしたが、バーゼルは流れる大河のごとく、停滞することなく進んだのである。
 こうした状況は昨年までは引き続き変わらなかったが、2018年は出展者の離脱がバーゼルワールドを侵食するように広がった。というのも、ジラール・ペルゴ、エルメススーパーコピー、ユリス・ナルダンがジュネーブのSIHHに移動したのである。エルメススーパーコピーの時計事業部長であるローラン・ドルデは「ジュネーブで私たちはパートナーという扱わをされ、かつ真摯に迎えられています。そのうえ、ここは私たちが考えるラグジュアリーというものにふさわしい環境なのです」と語った。バーゼルは出展者数が半減して650社となり、従来の会場は全体が閉鎖されて、時計界の白亜の殿堂であった建物も使用されない事態となった。しかも、来場者は明らかに減少したように思われる。 だが主催者にとって、最大級の打撃は18年の7月末に訪れた。驚くべきことに、スウォッチ グループが19年のバーゼルワールドには参加しないと宣言したのだ。主催者側は譲歩してより良い条件を提示したが、グループCEOであるニック・ハイエックは断固として方針を変えていない。 5月初旬には、19年のバーゼルワールドの予定が公表されていたが、その時点でも、代表格というべき出展メーカーはまだ選出されていなかった。ハイエックは、「その情報は我々には教えられなかった」と述べ、主催者自身、コンセプトが見えていないように感じたようだ。バーゼルワールドは新たな道を見つける他ないだろう。「その際は、我々スウォッチ グループも喜んで協力したい。しかしいずれにせよ19年開催に関しては、我々は傍観者でいる」(ニック・ハイエック)。同グループのこうした立場からも、バーゼルワールドの責任者が過去にどれだけ傲慢に振る舞い、それで信頼関係を失ってきたかが分かろうというものだ。 無論、バーゼルワールドを主催するMCHグループのCEOだったルネ・カムは、この歩みを快く思っていたわけではない。各社の撤退という一連の災難と株価急落の後、おそらくカムは、望まぬままにポストから追いやられた。「スウォッチグループの決断をきわめて遺憾に思う。新しく編成されたマネージメントのチームに才知が集結し、新しいアイデアが多数出てきた矢先に、急襲するように通達があったのだから」。 カムはなおも語る。「2018年7月1日にバーゼルワールド運営部門の責任者に就任したミシェル・ロリス- メリコフは、バーゼルワールドと出展者委員会の定期的な会議をサポートしている。5月の初めにこの委員会で意見交換会があり、6月末にはスイスの出展者各社の大まかなコンセプトが決まり、7月4日の国際的な審議会で公表された」。 会議の狙いは、ひとつの命令系統の下に、バーゼルワールドが効果的なマーケティング、コミュニケーションを打ち出し、イベントを発展させることにある。 主催側は今後、モバードグループの撤退により機能しなかったホール1の1階南側エリアを、見本市のハイライトとして、そこに独立時計師の作品を展示する意向だ。ここにはおそらく、ジュネーブのSIHHと2018年に新しくなった〝カレ・デ・オルロジェ〞で話題が沸騰した作品を借りて並べることになるだろう。ホール1の2階は、〝ザ・ループ(The Loop)〞と称する、時計技法の紹介スペースとなる。この展示はSIHHですでに実施されているものだ。食事に関しても改善の余地があるが、バーゼルの会場内にはファストフードから3ツ星レストランに至るまで、ありとあらゆる美食店が参入のする予定だ。プレス関係者への発表日の変更と、第1回オンリーブティック・フォーラムも、一応は計画中である。加えてロリス-メリコフは、各業界の良心に訴えて、バーゼルの宿泊と食事代を許容できる価格に抑えようとしているが、市場経済に関する法則に従うならば、おおむね自動的に解決されるだろう。バーゼルへの出展者と来場者が少なくなれば需要も減り、自ずと価格は下がっていくからだ。事実、2018年の時点で、ホテルは以前のように予約で埋まらなかったのである。 ここは強調したいところだが、バーゼルワールドには今もって、ブルガリ、ショパール、ウブロ、パテック フィリップ、ロレックス” title=”ロレックス”>ロレックス、タグ・ホイヤー、ゼニスといった、牽引力のあるスイスの大手ブランドが支柱として存在する。ブライトリングは、CEOのジョージ・カーンが撤退を告知していたが、今年のバーゼルワールド閉会後に前言を撤回した。ブライトリングは2019年の開催ではホール1の中心に最大のブースを構えることになり、さながら勝者の様相を呈している。 モバード グループは、バーゼルワールドに代わるイベントとする可能性を含みつつ、独自の新作発表会をバーゼル開催前に行った。アメリカ企業であるモバード グループはバーゼルとは離れた代わりに厳選した来場者をショッピングも楽しめるスイスの山岳地方に呼び込み、飲食とスポーツで饗応した。その評価は高かったようだ。 LVMHグループの傘下にある各ブランド(ブルガリ、ウブロ、タグ・ホイヤー、ゼニス)はバーゼルに先立って行われるSIHHにも積極的な姿勢を見せていて、以前からふた股をかけたかたちになっている。その内の3ブランドを牽引するジャン‐クロード・ビバーは、時代に沿わないバーゼルのコンセプトを、かつて批判した。「我々の時代になんらかの形で気に入られてきたものは、もはや以前ほどの魅力を保てていない。バーゼルの会場には、多くの人々に訴えるようなアクションはないように感じる」。 またビバーは、「ちょっとバーゼルワールドに行ってみよう」と関心を持った者が怯んでしまうような入場料も、厄介な問題だと指摘する。「入場チケットの代金が、エントリークラスの腕時計が買えてしまうほど高ければ、引き合わないだろう。バーゼルワールドの良さとは、誰でもフランクに入場でき、時計に取り囲まれて、わくわくしながら購買意欲が刺激されてしまうところにあった」 バーゼル出展にかかる費用はビッグネームだとたちまち総額で7〜8桁のスイスフランにもなるが、いずれにしても確かなのは、それを賄えるメーカーには独自に展示会をやってのける力があるということだ。まさにそのことをMCHは痛手と感じている。ミシェル・ロリス-メリコフはブリザードを受けたように厳しい立場に置かれているが、彼曰く、スウォッチグループの撤退後も〝ドミノ効果〞は生じていないという。公称では現在かなりの申し込みが来ており、2020年もバーゼルワールドの開催が決定したようだ。しかし、開催に際してどんな兆候が現れるかは、出展者へのアンケートで明らかになるだろう。 オリスのCEOロルフ・ステューダーは、主催側はバーゼルワールドが出展者に対して今後の出展について事前に提案し、それにふさわしいかたちで連絡を取り合い、両者ともにうまくいっているという触れ込みには賛同しかねている。というのも、偶然ラスベガスで、ステューダーがルネ・カムに会ったときのやり取りがあるからだ。「オリスは長年バーゼルに出展していて、まさしくバーゼルの顔たるブランドのひとつだ。だが1回でも主催側の責任者が我々のブースの前を通ってみて、我々が満足しているか、何か改善の希望や提案がないかと聞いてくれたことはありませんね」(ステューダー)。対してカムはステューダーに「そういったことは自分の仕事ではない」とほのめかし、しかし慰めに、担当者には伝えておくと言ったそうだ。もっとも実際に伝えたかどうかは、カムの辞任した今となっては、おそらくもう突き止められないだろう。 なお主催者はニック・ハイエックに失態の申し開きをしている。対して彼は「見本市の主催者は、出展者は金を出しても口を出すものじゃないと思い込んでいる」と発言している。 一方、運営側の責任者に就任してまだ日の浅いロリス‐メリコフは、自身で何度も強調するようにスウォッチ グループとコンタクトを取っている。彼は「スウォッチ グループが2019年のバーゼルワールドで成功することを鑑みて、また戻るかどうかで揺れている」ことを願っているが、もしかすると、失った出展者を呼び戻すよりも、新たな出展者を作るほうがはるかに楽だと分かっているのかもしれない。もっとも、彼が分かっていようがいまいが、これらの作業は厳しいものになるだろう。もはやシンデレラの魔法が解ける午前0時まであと5分どころではない。時計の針はもう1分前なのだ。※本文中「2000年を最後にIWC、ジャガー・ルクルト、ならびにA.ランゲ&ゾーネも会場を後にした」は、2001年の間違いです。謹んで訂正申し上げます。(2018/11/05)