松山猛の台湾発見「石が呼ぶ」

松山猛・著『せらみか』より
(1993年、風塵社刊)  掌中の勾玉を、くりかえしながめては、遠く去っていった時代に、思いをはせてみる。
 翡翠の緑は曇りがなく、その濃淡のあいだに、毛細血管のような模様がある。
 勾玉を初めて見たのは小学生の頃だった。東山七条の国立博物館の片隅に、古代日本人の残した、数々の物が陳列されていたのだが、なかでも僕は、勾玉の色とかたちに引かれるものを感じた。
 それはなぜか、ゼリービーンズを思い出させた。半透明な感じが、きっと似ていたのだろうと思う。
 勾玉のイメージは、しっかりと我が脳細胞に刻みつけられた。しかし、それは意識の底深く沈澱し、いつか身につけようとか、自分で所有したいという気持ちではなかったのだ。
 淡緑色が混じった、乳白に近いそれらの勾玉は、かつて多く日本海沿岸に産したという。そこには玉を磨く技術をもった人びとの集落があり、国内外の交易の品として使われたらしい。
 勾玉は、もし生命や魂にかたちがあるとしたら、それにも似ているのではないだろうか。
 しばらく忘れていた、そのかたちを思い出させたのは、家内の父親からいただいた、翡翠のはいった金の指輪を、身につけるようになってからだった。
 中国では古くから、玉、特に翡翠は、魔除けの石とされてきたと言う。台湾の人びとが、年齢に関わらず、たいてい緑色の石を、指輪、腕輪、首飾りなどの装身具に用いるのは、幸福を願ってのことである。
 台北を歩くと、宝石を扱う店では、ダイヤモンドと等格に思われるほど、玉がショーウィンドウに並べられているのだが、素人には、どれが良くてどれが並なのかがわからない。ダイヤモンドのように、化学的に分析された等級というものもなさそうだし、ただ、きれいだなあと、思うよりほかはないのである。
 まだ行ったことがないが、玉市場も立つらしくて、そこには、どれほどの素晴らしい玉が集まるのだろうか。今度台北に滞在する日には、必ずその熱気あるジェイド・マーケットをのぞいて見たいものだ。
 その片隣とでも言うべき、路上に拡げた布の上で、玉を扱う露店を、このあいだの香港行きで見てきた。いろいろなかたちがある。動物を形どったもの、植物のそれ、字を浮彫りしたもの、意味不明のシェイプのもの、どれがいっとう古くて、どれが新しいのかも、まるで判断できぬ。なにしろほとんど知識がないのだから、ちょっと手を出しかねた。
 まわりの人びとは、広東語でなにやらせわしなく喋りまくり、あの、ちょっと、と声をかけるのもためらわれた。
 ルーペで細部をためつすがめつ見るランニングシャツの男、麻の中国服の老人、皆が路上の玉に熱い視線を注いでいるのであった。
 なにしろ、この玉の世界は、石器時代に始まっているわけで、作られた種類も数も、かなりすごい物があるのだろう。そんなに古くなくてもよいが、できれば美しい漢玉にいつかめぐりあいたいものだ。
 漢玉とは、文字通り漢の時代の作で、玉器製作の頂点たる時代である。当時の技術にないのは、ダイヤモンドのブリリアンカットぐらいだと言われるほど、その装飾技術は多岐を極めた。
 漢玉が素晴らしいと教えてくれたのは、台北の中山北路に店をもつ、謝老人であった。
 彼の言によれば、身につけた漢玉のおかげで、今までに何度もの危険から身を護れたそうである。
 彼がズボンのベルト通しにかけて、身につけている玉の飾りを見せてくれたが、それはいわゆる硬玉という物で、なまなかな金属、いや銅で表面を引っかいても、傷すらつかぬ代物である。色は明るい飴色を主体に、紅茶のような色を配した石であった。
 科学の世紀に、石が身を護るなど、迷信にすぎないかもしれないが、石そのものが美しいという気持ちは理解ができる。
 それらの石は、ただどこにでも転がっている石ではなく、物理的にすごい圧力を受けたりしてできた、自然の魔術の産物である。その金属をもしのぐ硬さや、透明さ、またある石は、光を反射して美しく、この世のものとは思えぬ色を呈している。
 ラピスラズリは、まるで紺碧の天空に封じ込められた星屑のように、微細な金の粒子をその表面に散りばめ、トルマリンやエメラルドは、まるで美しい水が、そのまま固められたようでもある。