ロレックスが創造した時計の歴史(前編)

ウイルスドルフ&デイビス社の設立 はじめに腕時計ありき 1905年、ドイツ・オーバーフランケン地方ババリア生まれの商人、ハンス・ウイルスドルフはロンドンに時計卸売商、ウイルスドルフ&デイビス社を設立した。彼はここに、後の時計帝国となるロレックススーパーコピーの礎を築いたのである。当初は主に、上品なレザーケースに入ったトラベルウォッチを販売していたが、軍やスポーツ選手、とりわけ、女性からの腕時計への需要が次第に高まったことから、ウイルスドルフはそこにチャンスを見いだす。スイスのパートナー、時計製造会社のエグラー社はすぐに見つけることができた 。ビエンヌのエグラー社への初回の注文は、腕時計の分野ではおそらく前代未聞の数十万スイスフランという規模で、この金額はウイルスドルフ&ディヒス社の資本金の5倍に相当した。 エグラー社製の時計は売れ行きが極めて良く、発注契約はその後も毎年、更新された。新しいケースやダイアル、特に、精度のより高いムーブメントのためのさまざまなアイデアがロンドンからビエンヌに送られたが、ウイルスドルフ流といえども初期の腕時計には懐中時計を想起させる特色がまだ色濃く残っていた。ムーブメントは、蝶番式の裏蓋を持ち、ハンドル型のラグが丸いシルバーケースにはんだ付けされていた。特記すべき点は、エナメルダイアルに入った赤い “12” の数字だ。これは、1910 年頃になってから高い人気を集めたデザインてある。
ダイアル上の”ROLEX” ブランド確立への道 イギリス国籍を取得したウイルスドルフは、腕時計で大きな成功を収めていたにもかかわらず、当時、広く根付いていた慣習を快く思っていなかった。イギリスの大型輸入店が、ムーブメントやダイアルに自社の名称に限って入れることを許し、デザイナーや製造者、卸売業者には社名を入れることが許されていなかったのである。引き続き良好なビジネス関係を維持するため、ウイルスドルフは銘に関する強制的とも言えるこの不文律に屈従せざるを得なかった。だが、その一方で、卓越した製品には魅力的な名称が必要であることが、彼には分かりすぎるほど分かっていた。かくして、ある程度、時問が経ってから、彼は自分自身が不可避と考える道を歩むことを決意したのだ。1908年、ウイルスドルフは自身の時計のために”ROLEX”を商標登録する。由来には諸説あるが、一説には “rolling export”の造語とも言われている。2音節で耳に残りやすいこの名称は、どの言語でも簡単に発音でき、ダイアル上であまり場所を取らなかったことから、時計宝飾店にも名を入れるスペースが残されていた。目標を達成するには、ある種の “小出し戦略"が必要だった。 彼はまず、供給する時計の一部で、ダイアルに “ROLEX” の文字を入れる許可を納入先から取り付ける。その後、この銘の入った時計の納品数を少しずつ増やしていったのである 。ダイアルやムーブメント、ケースにロレックススーパーコピーの名のみを刻めるようになるまで、合計で19年かかった。13リーニュのエグラー社製手巻きムーブメントをシルバーのハンターケースに装填し、エナメルダイアルと赤の”12″の数字を備えた手巻き腕時計は、今日では世界的に有名なブランド名が入った最も初期のモデルに数えられている。
公認クロノメーター証明書を初めて公付されたビエンヌ製の腕時計
公式に証明された制度 ハンス・ウイルスドルフが何よりも優先したのは信頼性と高精度である。ロレックススーパーコピーが公式検査によって腕時計の精度を実証していた1916年になっても、同時代の保守的な人々からは腕時計が完全には受け入れられていなかったことが、彼がこれらを極めて重視した理由である。男性の持つ時計としては柔弱と みなされたばかりか、腕時計は他のタイプの時計よりも精度が劣るとされていたのである。だが、ロレックススーパーコピーの設立者、ウイルスドルフは、腕時計も懐中時計と同じくらい高精度を出すことが可能で、また、高精度であるべきだと信じて疑わなかった。  こうした信念に基づき、ロレックススーパーコピーは1910年に、後の公認時計検定局となるビエンヌ時計学校に 11リーニュのレバー脱進機のサンプルを提出した。脱進機はここで、公式な監督の下、さまざまな姿勢や温度差のある環境で14日間、精度を証明しなければならない。2週間に及ぶ検査を終えた後は、情け容赦ない検定委員会でさえ、公認歩度証明書に祝福の言葉を添えて “ミニチュア”ムーブメントを返送するしかなかった。これが、世界で初めて 腕時計に授与された公認歩度証明筈である。
キュー・テディントン天文台から“A級”の公認歩度証明書を交付された初の腕時計
イギリスでの証明  ハンス・ウイルスドルフは、これまで通り、イギリスで事業を展開していたことから、エグラー社製の 11リーニュの手巻きムーブメントを当地でも検査に提出した。2回目となる公式の実証検査は 1914年、英国キュー・テディントン天文台の国立物理学研究所で行われた。ムーブメントはここでも優秀な成績で合格する。この検査は、3時上、3時右、3時左、ダイアル上、ダイアル下の5つの姿勢と、室温、冷蔵庫の温度、調整炉の温度の3段階の温度差で45日間にわたって実施された。 検査の結果、青いエナメルベゼルを備えたゴールド製の時計は、腕時計としては史上初めてA級の公認歩度証明書を獲得する。この種の公認歩度証明書は、基本的にマリンクロノメーターのような大型時計のために考案されたものであった。ここまで小型のムーブメントには需要がなく、専用の規定が用意されていなかったことから、“ミニチュア” ムーブメントの測定には、かなりの数の機器を使用しなければならなかった。
初の防水腕時計 オイスターの誕生 腕時計が汚れや湿気に弱いのはケースに起因するという批判は、ハンス・ウイルスドルフの元にも繰り返し届いていた。弱点は、風防の緑と裏蓋、そして、リュウズであった。ラバーやレザーのような弾性のある素材は劣化することから、彼はこうした素材をパッキンに使用することを選ばず、以下の構成部品によって、あくまでも設計のうえで解決することにこだわった。 A 水が浸入しないように各パーツ同士をねじ込んで密閉する気密性が完壁なケース
B 形状がケースと一致し、人工素材でできた、当時、新発明の完全に密閉できる風防
C 毎日使用しても湿気の浸入からムーブメトを確実に守る巻き上げ用リュウズ 1926年10月18日、ウイルスドルフはベルンのスイス知的財産庁で、巻き上げ用ねじ込み式リュウズを備えたケースの特許を申請した。イギリスでは 1926年10月30日に特許申請が受理されている。ねじ込み式ケース自体は、当時すでに特許保護の対象となっていた。ロレックススーパーコピーは、二枚貝に由来する“オイスター”という印象的な名をこのケースに与えた。さらに、時計と同時に、ケースに浸入したわずか 0.5mgの水滴でも特定できる新型の検査器具も開発する。ウイルスドルフは時計販売店から無条件で受け入れられることを望んでいた。マーケティングに長けた老練な戦略家がそのために提供したのは、同じく特許を取得した小型水槽である。ショーウィンドウに置かれた水槽の中で、時を刻むオイスターの周囲を金魚が驚いた様子で泳ぐという趣向だった。結果、その戦略は見事に成功したのである。